木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

フィメールの逸話

そういえば古い少女マンガで、事故死した少年の魂が自殺した少女の体に入って(少女の魂は生を拒絶していたので、まだ息のある体は器が空になっている状態だった)、少女として生き返るという設定の作品がありましたね。

少女の体に入った少年は、生前同級生に片想いしていたので自分の体が少女になってしまったことに混乱するどころか「これで堂々とあの人に告白できる」といきいきと少女ライフを満喫していましたね。

生前の生活を見ると別に女性になりたかったわけではないのでしょうけど、それぐらい同性愛タブーのプレッシャーがきつかったということなのでしょうね。

自分の体が異性になってしまったことに全く抵抗感がなかった元少年と違い、片想いされていた同級生の方は今はどこからどこからどう切り取っても女性でも(事情を知らない他のクラスメイトからすると自殺未遂から生き返ってきたら、憑き物が落ちたように明るく魅力的になった彼女という状態ですし)、中身はかつての同級生で同性という事実に混乱を隠せなくて、なかなか彼女を受け入れられない。

 

これ、最初は気をつけて「僕」とう一人称を使っていた主人公がだんだんと

「今、私『私』という言葉を使ってる。今までは心の中では『僕』を使っていたのに。こんな風に意識しなくてもだんだん自然に女の子になっていくんだわ」

 と思ったり、人間の性を決めるのは肉体なのか、精神なのか、それとも社会的役割なのかを考えさせられて面白かったですね。

これネタバレになってしまうから興味を持ってくれた人には申し訳ないなと思いつつ書いてしまうのですが、色々あった後、最後に主人公は友達を庇って事故に遭ってしまうんですね。

 で、事故の後主人公は記憶を失ってしまうの。自分の体が、かつて別の人物の体であったことも。自分がかつて男性の体を持っていたことも。男性の体を持っていた頃、好きな人がいて、その人に何の障害もなく愛を打ち明けられるようになりたいと思っていたことも、全て忘れて、自分は友達を庇って事故にあった生まれついての女の子だと思っている。

 全てを覚えているのは彼女に愛されていた少年だけ。そして彼は

「あいつ、事故にあってから大人しくなったよな」

「やっぱり事故で記憶を無くしたせいで臆病になってるんじゃない?」

 という友達の会話を聞きながら、女になったことを喜び、女として誇りを持ち、あざやかに女であることを提唱した彼女はもういない、と思うのですよね。

 今、これKindle Unlimitedで読めるみたいですね。私、書籍の電子化はそんなに好きじゃないけれど(単純に目が疲れるので)こういう手に入りにくい過去の名作が電子化という形でも復刻されて読みたい人が読みやすい状況が作られるという点ではいいですね。

 主人公の恋がどうなったのかについてはご興味のある方ポチってみたください。というか私も読んだのが古すぎて、印象的な場面しかよく覚えてなかったわ。この手の少女漫画は今読んでもあまり古さを感じないですね。

 主人公が、自分が元男の子であったことを覚えていた頃の方が、女の子としての生を心のままに楽しんでいたというあのラストは色々なことを考える材料となりますね。

 

 

 

フィメールの逸話1

フィメールの逸話1

 

 

同期生

エンタメ産業には少女の欲求や願望が素直に出るよね、で思い出したのですが、これ面白かったですね。何故、タイトルが「同期生」なのかというと、この3人、同時期に同雑誌デビューなんですね。

竹宮さんが「少年の名はジルベール」で書いていたけど、70年代って「新しいことをやろう。今までにないことをやろう」という気風が凄く強いのね。特に少女マンガ畑だと、編集者の

「女の子って、こういうものが好きだよね」

 に対しての

「違うわ!私も読者もそんなものは求めてないの!私が描きたいのは、こういうものだし、読者が求めているのは、こういうものなの。違うというならアンケートで結果出してやるわ!」

 という対立が凄く面白い。70年代が革命の時代と言われる所以でしょうね。

 少女マンガの二代派閥と言えば、集英社系と講談社系の分かれるのでしょうけど、昔の少女マンガを読んでいると講談社系の方が保守的というかオーソドックスな印象がありますね。

 70年代の講談社系で夫や子供を捨てても自分の夢(仕事)を選ぶという女性が、欠点も含めて説得力のある魅力的な女性としてかかれた例はあまり思い浮かばないし。(大和和紀さんの作品にも、そういう母が出てきた気がするけど、あれファムファタル系の身勝手な女性としていて描かれていたような)

「デザイナー」で主人公が自分たちを捨てた母親に

「あなたこそ、本当のデザイナーだわ」

 と言っているから、母親としては最低でも同じ職業の先達としては尊敬に値する凄い人だと認めているんですよね。

 それにしても、あれ掲載誌が「りぼん」だというところが凄いよねえ。あの愛憎劇を70年代小中学生は毎回ハラハラしながら読んでいたわけですよ。一条さんの人気を決定づけたと言われるのがあれだし。一条さん自身も

「あれで自分が描きたいものを描けば読者がついてきてくれると自信がついた」

 と書いていますし。

 あと、一条さんてもの凄く自己プロデュースに長けている人なんですよね。それこそ、これからどうやってキャリアを形成していったらいいかを悩む学生は、この本を読めと言いたくなるくらい。

 中学生の時点で「将来は漫画家になりたい」その為には、どちらの高校に進学すればいいのか?を考えて。マンガを描く時間を取りやすい商業高校を選ぶか。大学への進学を考えて普通高校である進学校を選ぶか。 

 この二つのどちらかを選ぶか悩んで考えて、大学よりも漫画家がいい、で商業高校を選んだのですわ。「あれだけ悩んだことはなかった」と未だに記すくらいの決断を中学生が一人で考えて決めたんですものね。

 漫画家になってからも編集者に

「読者アンケートを見せてください。良いものはいりません。悪いものだけ見せて。それから参考にしたいからアンケート一位になった方への読者からの反応も見せてください」

 と依頼して、見せてもらい、自分とアンケートトップとの反応の違いはどこか。自分のどこが読者に受けているのか。トップの人が持たない自分だけの特性、読者を魅了している点はどこかを徹底分析しているんですよね。(この時、一条さん10代か20代そこそこよ。さすがトップランナーは違う)

 徹底的に自己分析、自己プロデュースしている一条さんに対し

「僕、編集者に色々言われたことはありません。自分の好きなものを好きなように描かせてもらいました」

 という弓月さんの話も面白かったですわ。

「少女誌と青年誌で内容を変えようと思って描いたことはないですね。基本、描く姿勢は同じです」

 私、弓月さんの青年誌の作品をそんなに読んだことはないのだけれど、少女誌の頃とあんまり変わった印象はないよね。変わったのは性描写が大人向けになったくらいかな。

 まあ、それは対象読者が成人前の人を想定しているか、成人後の人を想定するかの大人の良識だろうし。可愛い女の子大活躍、脇を固める常識ある大人という構図は変化がないような。

 弓月さん自身が「自分の意思のある男の意のままにならない女の子の方が描いていて楽しい」という人であるせいもあるのでしょうね。

自殺しようとして死にかけていた主人公の脳を女の子の体に移植してしまう話なんて今読んでも面白いし。

 あれ主人公を脳移植した医者は、まごうことなきマッドサイエンティストなのだけれど、その動機が、最愛の妻が若くして脳腫瘍で死んだ、という現実を受けいれられない。なんとかして亡き妻を生き返らせる、だから少女受けしたのでしょうね。

 妻が生きかえらない研究なら続けても無駄だから、成果が出ていてもさっさと別の研究に切り替えてしまうし。少女マンガは目的が愛であれば、わりとなんでも許される。

 主人公の脳を元の体に戻すか悩んでいる時、夢の中で再会した妻に

「あなたの愛したのは私の体だけだったの?」

 と尋ねられて

「そんなことない、そんなことないよ。僕が愛したのはおまえの存在全てなんだよ」

 と、言いつのるところなんて、絶対少女受けするよねえ。

 それにしても、あの主人公、結果として男性なのに妊娠、出産を体験してしまっているんですよねえ。妻が亡くなる前に妊娠していたと知ったマッドサイエンティストが、主人公を元の体に戻さないのは当然だけど、あれをドタバタコメディとして成立させているところが弓月さんの凄さですよね。

 和田慎二さんもそうだけど、男性少女漫画家ってSF、アクション、ミステリーが得意な印象があるから「こういうのが読みたいのよ!」という読者の要求と「僕、こういうの描きたいです」という作家側の要求がピッタリあったのでしょうね。

 鬼滅の刃、結構残酷な描写もあったりするので子供への悪影響を心配する声もあったりするけれど、フィクションをフィクションとして楽しんでいる限り心配はいらないのじゃないかな?

 少女マンガでも結構残酷な描写はあったもの。ホラーは言わずもがなだけど、SFやアクションでリアリティを追求すると、どうしてもそうなりますよね。そのあたり弓月さんはギャグで上手く誤魔化してますけどね。

(もっとも弓月さんも「両親が義母に子供を預けて旅行に出かけた時に、祖母が脳溢血を起こして倒れたら、残された赤ちゃんは一人でどう生き延びるのか?」というリアリティを追求した大変怖い作品がありますけどね)

結局、トップランナーであり続ける人って人間観察力が、もの凄いんですよね。「人間って、こういうものだよね」という引き出しを本当に沢山持っている。

 そこに善悪や優劣をつけるのではなく「この人なら、こういう行動を取るだろうな」と読み手に納得感を持たせる行動を取らせて物語を展開するからトップランナーであり続けるのでしょうね。

 

 

 

 

尊属殺人が消えた日 

津雲むつみさんが、この事件を元にした作品を描いていたけれど、そういえばフィクションじゃない方は読んだことがないなあと思ったら、図書館に蔵書があったのでリクエストを出してみました。

今では絶版になっているルポも読めるのが図書館の有難いところですね。さすがに30年以上前に出版されたい本だと古書店巡りでもしない限り読むのがでしょうから。

この本はタイトル通りの本、つまり尊属殺人罪が憲法から消える理由となった事件、中学生の時に実の父親に強姦され、父親の子供を三人も産まされることになった娘が思いあまって父親を殺した事件について、父殺しの罪が適用されるのかどうか裁判で争われた時の記録です。

尊属殺人罪とは、明治憲法時代に制定された刑法で、自分の親、配偶者の親、義親などを殺した場合、通常の殺人罪より罪が重くなるという規定です。

明治は家父長制の時代ですから、国家の道徳倫理として、親は敬うもの、親の言うことに子供は従うものという価値観があるわけです。

で、敬うべき親を殺してしまった子供は国家の定める倫理に逆らったので、通常の殺人罪より罪が重い。

これが昭和も48年にもなってまで残っていたところが凄い。法の下の平等を定める新憲法になってから何年よ。

被害者の弁護を引き受けた弁護人が

「警報が制定された当時の社会的背景と現実の国民の規範意識に変化が大幅に生じた場合には、過去のある特定の倫理観、価値観が法律の条文から排除されなければならない」

 と考えるのは当然だし、一審で「被告人に対して刑を免除する」という判決が出るのも、控訴した検察側が

「あれは憲法問題が絡んできたので、立場上控訴するしかありませんでした。本当に被告は気の毒でした」

 と加害者に対して同情的で、本当は控訴なんかしたくないんだけど、憲法問題が絡んでいるから上にあげない訳にはいかないよね、と消極的態度だったのは理解できるのだけど、ニ審の裁判長と最高裁の判事の発言は理解できないわ。

津雲さんの「緋の闇」かなりえぐい話なんだけど、それでもあれ読者が受け入れやすいようにかなり事実を変えているのですよね。

「緋の闇」では、母親は既に父親に殺されているから娘を犯す夫をとめられなかったけれど、現実では母親は生きていて、しかも母親だけでなく親族も娘が父親に犯されていることを知っているのだけど、娘から引き離そうとすると父親が暴れて手がつけられなくなるので、諦めて黙認しているし。

第一「緋の闇」では、検察側も、裁判所側も殺人者となってしまった娘に同情的だけど、現実ではニ審の裁判長は

「被告は小さい時に、心ならずも父親に手をつけられてのであるから、元はと言えば父親の方が悪いと言えるかもしれない。しかし、その後被告人は父親と十何年も主婦同様の生活をしてきたのに、父親が働き盛りを過ぎた年頃になって、被告人が父親のところを去り、若い男と一緒になると言えば、父親としては被告人が男一人を弄んだことになるのだというような趣旨のことを言ったようにもとれますが、被告人もそのように考えたことがありますが」

「被告人とお父さんとの関係は、いわば”本卦がえり”である。大昔なら当たり前のことだった。…ところで被告人はお父さんの青春を考えたことがあるか。男が三十歳から四十歳にかけての働き盛りに何もかも投げ打って被告人と暮らした男の貴重な時間を、だ」

 と言って、被告側の弁護士を絶句させていますからねえ。

 70年代にもなっても、裁判長が裁判所でこれを言って、一審では違憲とされた尊属殺人罪を合憲とし、しかも過剰防衛は認められないと一審の刑免除を破棄して実刑判決を出しているのですからねえ。

 いやあ、70年代にベルばらが熱狂的に受けた理由がわかるわ。この理屈をおかしいと思わない男が裁判長をしていた時代だもの。

裁判の中で、何度も「なぜ娘は逃げなかった?」ということが尋ねられているけれど、今見るとどう見ても学習的無力感に支配されているから、そりゃあ逃げられないだろうなと思うし、また逃げたとしても当時の社会状況だと生活できなかったでしょうね。

 裁判の途中で、被告側の弁護士は癌で帰らぬ人となるのだけれど、これ父が同じ職業についていた息子に弁護を引き継ぐよう頼むのは分かるし、後を引き継いだ息子が

「私は親父の意思を継いで尊属殺人違憲だということを最高裁に絶対認めさせてやります」

 と言うのも分かるわ。

 最高裁では、二審の判決を破棄して、尊属殺人罪の規定は違憲であると判断し、1人を除いた6名は

「親子の道徳を人倫の基とする考えそのものが家族制度の遺物であり、もともと普通殺人と区別して尊属殺人の規定を置くこと自体が違憲

 としているのだけど、それでも外交官出身の判事だけは

「尊属殺の背倫理性は高度の社会的道義的非難に属するので、刑法200条の法定刑が特に厳しいことはむしろ理の当然である」

 と合憲の姿勢を崩さないところがまた。

 今の無戸籍問題もそうだけど、自分の考える家族制度を変えるような法律の改訂は、確実に不利益を被るものがいてもしたくないと考える人はいつの時代にもいるものですね。

 そして、この事件とは別の性虐待の記録も記されているのだけれど、自分を虐待する父親から逃げ出して娘が児童相談所に駆け込んだのけれど、父親が親権を盾に娘を返せと要求したので、児童相談所は娘を返さざるをえなかった、と記されておりましてね。

 日本の親権強過ぎ問題は、既に70年代には問題になっていたのですね。40年以上ちっとも進歩がないところが凄いなあ。

この件、なんとかして娘を救えないか考えた児童相談所が、裁判所に父親の親権剥奪を訴え、裁判所がそれを認めて父親から親権を取り上げることで、ようやく娘を保護することができたんですよね。

 

無事大人になるまで生き延びたことができた元虐待児達が

「日本は親の親権が強過ぎる」

 と親の親権よりも子供の人権を認めるように訴えているのも無理はないですよねえ。それでも尊属殺人罪を廃止したがらなかった人達のように「子の親に対する道徳義務」を絶対に無くしたくない人達もいるんでしょうね。

親子の関係を情ではなく義務で成立させたい人達はいるわけだ。

 

近親相姦(という名の性虐待)について、疎外感からの慰め的に手近な娘や息子を求めるのは何故か?何故、慰めを配偶者ではなく、子供へ、自分より力関係の弱いものに求めるのか?という問いについて精神医学の専門家が

「戸籍上では夫婦かもしれないが実生活では夫婦ではない。夫婦としての絆はとっくに断ち切られているんです。夫も妻も自らの精神を求めあわない」

 と答えているのを読んで

「酒呑みながら、夫婦で会話するのが一番楽しい」

 と記し、晩酌を欠かさなかった田辺聖子先生ご夫妻を思い出し、ああいう精神的な豊かさに満ちている人を大人っていうのだろうな。大人でないものは、自分に逆らえないものを求めるのか、と思ったりもいたしました。

 

 

尊属殺人罪が消えた日

尊属殺人罪が消えた日

 

 

 

 

 

チェブラーシカ

横浜人形の家でのチェブラーシカ展が17日までだったのですが、緊急事態宣言のおかげで断念した人もいるかもしれませんね。

あれねえ、入り口にあったチェブラーシカの紹介文が今の世の中にあって、とても良かったのですが。

「この国には いったいどれくらいいるんだろう ひとりぼっちの人が」

チェブラーシカというキャラクターを見たことがあっても、それがなんのキャラクターでどういう物語をもっているのかまでは知らない人もいるかもしれませんね。

元々はソ連の児童文学なのですが、有名なのはそれを元にした人形アニメの方でロシアでは国民的支持を得ています。

どのくらい支持を得ているのかというと版権を手に入れて、日本人がチェブラーシカを再映画化した時に

「日本人がチェブラーシカを作る?俺たちのチェブラーシカがチョンマゲを結うっていうのか⁉︎」

 と映画館につめかけたロシア人が上映後

「俺たちのチェブラーシカが帰ってきた!」

 と拍手喝采したというエピソードに

「日本人もドラえもんをハリウッドがリメイクすると聞いたらそういう反応になるよね。わかる、わかる」

「ハリウッドなら日本人のようにオリジナルを忠実に再現したりはしないぞ」

「元作品へのリスペクトがあるって大事だよね」

 という反応が出る程度には有名な作品なわけです。

 

横浜人形の家で展示していた日本版チェブラーシカもいいのですが、私はやっぱり毛ボサボサの旧ソ連チェブラーシカの方が好きなんですね。チェブラーシカのよるべのなさがより一層でているようでね。

 

チェブラーシカの外見を見て、猿?熊?どっち?という反応をされた貴方、それは正しい。チェブラーシカは、自分が何か分からない生き物なんですね。

南から運ばれたオレンジの箱に紛れ込んでいた生き物。オレンジの箱に座らせようとしてもバッタリ箱の中に倒れてしまうから「チェブラーシカ(ばったり倒れ屋さん)」と名付けられ、自分が何か分からないから動物園でも引き取ってもらえず仕方なく電話ボックスの中で暮らしていた生き物。

旧東側世界は国による表現規制が厳しいので、比較的自由が許される子供向け作品にも分かる人にも分かる暗喩が込められたという話があるけれど、もしかしたらこれもロシア人には分かる暗喩が込められているのかな?

この自分でも自分が何かは分からない、誰からも保護をしてもらえない孤独な生き物が、動物園に通勤する同じように孤独なワニ、ゲーナと友達になり、やがてひとりぼっちの生き物達の「友達の家」を作る。

端的にいうと、こういう話なのですが、独特の哀愁があってとてもいいのですよね。

 

チェブラーシカだけでなく、旧東側世界の人形アニメは可愛くて、情緒があって好きな作品が多いのですが、やっぱりどこか孤独感や哀愁がありますね。

ひとりぼっちの女の子の手袋が子犬に変わるという「ミトン」も私が好きなのですが、あれも孤独感や哀愁が付き纏いますね。

コロナのおかげで、日本では孤独と見かけない人を警戒する動きが広まってしまったけれど、それ旧東側世界でもそうなんですよね。

 

見知らぬ人は大丈夫と分かるまで用心を心がける。うっかりと下手を打つとコロナ禍の日本では病が人を殺すかもしれない。旧東側では国家が人を殺すかもしれない。

だから自分を守るために、どうしても孤独に陥りやすくなる。

人が孤独の中に閉じ込められやすい時だからこそ、孤独に暮らす生きもの同士が互いを尊重する関係を作るアニメを見て心を和ませるのもいいかもしれませんね。

 

あとチェブラーシカは音楽がいいのよ、音楽が。青い列車は、気がつくとくちすさんでいたりしますね。

 

チェブラーシカ [DVD]

チェブラーシカ [DVD]

  • 発売日: 2008/11/21
  • メディア: DVD
 

 

 

 

半藤一利さん亡くなる。

今日は旧暦だと師走の始まりの日なのですが、そういう日に半藤さんの訃報を聞くと語り手が変わるということの意味を考えますね。(´-ω-`)

 

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半藤一利氏が文藝春秋に入社して最初に担当したのが坂口安吾で、初めて原稿取りに行ったら酒に付き合わされて帰れなかった、という話を当人から聞きましたが、あの瞬間に自分は半藤翁を介して坂口安吾と地続きにいたというのが、近代史の沼に生息する不肖の身として得難い経験だなと今にして思う

同様の経験としては、元日銀理事の緒方四十郎氏(父は元副総理の緒方竹虎氏、妻は緒方貞子氏)の話を聞いた時にも、緒方氏を介して東久邇宮稔彦佐々淳行東條英機と地続きになったような感覚を得て、なるほど語り部というのはそういう存在なのかと

語り部という存在は再生産できるものではないと思っていて、だからこそ生きているうちに聞いて書き残さねばならない。そうすれば後世に批判する(非難に非ず)ことも可能だろう。

半藤翁も『日本の一番長い日』などを通じて、語り部たちの言葉を活字に残す役割を果たし、そして自らも語り部となった

私なんぞも、あと半世紀もすれば『あの時あの人が〜』と伝承する時が来るのかもしれませんが、その時は半藤翁にあんな放言かました若気の至りをその頃の若造に得意げに語ってみたいもんだし、なんならその頃の若造に『オレも彼女欲しいっすwww』と言われたいな、とふと思う冬の夜」

 

 

 

 

 

天、共に在り

ペシャワール会の人たちも連絡が来るまで知らなかったそうですが、内閣府の国際広報事業で日本を伝える為の一冊として英訳されたそうですね。

(「PROVIDENCE  WAS  WITHUS」というタイトルで12月4日に出版されています)

これ内閣府が「日本を伝える為の一冊」として選んだところが凄いなあ。内容は濃くて、深くていい本だけど(時間があるお正月には読むにはピッタリの本だと思う)、いわゆる「日本スゲー」の人達が喜ぶような本ではないと思うんですよね。

中村先生、正直な人だから現代日本について結構辛口なことも書いてるし、またそれが筋が通った的をいた書き方で書くから頷くしかないんですよね。

ただ「日本スゲー」の人達には不満があろうとなかろうと、この本は英訳されても読者はつくと思う。

「人とは、どう生きるべきか?」という問いへの答えを求めて煩悶するのは世界共通だし、生き方でその問いへの答えを示した人の記録は国に関係なく読みたがる人はいるでしょうから。

 そういう意味では内閣府の国際広報事業は、きちんと税金を使った仕事をしてますよね。世界に伝えるべき本をしっかりと選んでいる。

 

これ版元はNHK出版だから中村先生の他の本に比べて比較的手に入りやすいのじゃなかなあ。他の本は九州以外の方は本屋で見つけるのは紀伊國屋クラスの大型書店でないと難しいかも。

もっとも地方出版物流通センターに加盟しているようなので地元の書店に頼んで取り寄せてもらう可能ですけどね。

 

天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

  • 作者:中村 哲
  • 発売日: 2013/10/24
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

旅ごころはリュートに乗って: 歌がみちびく中世巡礼

今年は、これを読んでいる時にこれが起こるのかと思うことが多々ありまして。(「石井光太さんの『赤ちゃんをわが子ととして育てる方を求む』を読んでいる時に特別養子縁組をした芸人が同じように特別養子を迎えたママ友と親子パーティを開きましたというブログ記事を問題視しているツウィートを見かけまして。

問題視していた人達は元虐待児であることを明かしていたから子供の権利には敏感なのでしょうね。

「子供の顔を隠さないでネットにあげてる。赤ちゃんだから、大きくなったら顔変わるから問題ないとでも思ってるの?」

「この子達は自分が物心つく前に『自分は養子である』と大声で世の中に広められてしまうわけか。特別養子には自分が知られたくないと思うことを知られないよう守られる権利もないのか。赤ちゃんに公表してしていいかどうか、尋ねられる判断できる能力なんてないよね」

「これ仲介団体は何やってるんだ。特別養子縁組を広めるためなら、こういうアピールはどんどんしろってこと?だからあの団体は信用できないのよ」

 等々書かれておりまして、普通容姿ではなく特別養子だものなあ。体を張って自分が斡旋した親子の秘密は守り通し、特別養子縁組法を成立させた菊田医師が草葉の陰で泣くぞと思いました)

 

話が逸れましてので戻しましすね。今月の古事記講座で「さくはほう くにまとまるのそうあり」という言葉とその言葉が示す二つの可能性をお聞きした頃、ちょうどこれを読んでいまして。

「人が一つにまとまる」の負の側面をたっぷり教えてくれる本を読んでいる時に、あの言葉を聞くと余計怖さが響くなあと思いました。

前作の「みんな彗星を見ていた」に引き続き、キリスト教ものですね。もっともキリシタン史からキリスト教を見つめたので、基本的には日本、スペイン、ポルトガルを中心にした前作と違って、欧州からアフリカ、中東とキリスト教世界への旅は広がっておりますが。

牛にひかれて善光寺詣り、ならぬリュートにひかれてキリスト教世界へですね。

それにしても星野さんご自身も書かれてましたけど、リュートに連れられていく旅がこいう展開になるともは思わなかったですね。

まあ、確かに西洋古楽と関わる限り、ヨーロッパの世俗権力やキリスト教の生臭い面とは無縁ではいられないのだけど、今回は十字軍の話がよく出てきますね。

 

十字軍の強盗の集団、狂信的な侵略者としての面を書いた本はわりとあるけれど(アニメにもなったアルスラーン戦記のルシタニア軍はどう考えても十字軍がモデルだし)十字軍の行軍ルートがそのまま欧州のユダヤ人虐殺ルートと重なるとは思いませんでした。

イスラム教徒とオリエント地域のキリスト教徒が受けた被害は知っていましたが、十字軍時代のユダヤ人虐殺祭はえぐいわ。

 

「神の為に神の敵であるイスラム教徒を血祭りに。その前にちょうど途中にユダヤ人の集落があったから、ここもついでに滅ぼしてしまえ」で女も子供も血祭りに。

 

木原敏江さんが

「騎士道、騎士道と讃美するけれど騎士道を詳しく知るたびに野蛮な人でなしという印象が強くなる。これが当時の欧州では賛美される騎士の姿だったのか」

と書いていたけれど騎士が紳士的に振る舞うのは自分が人間と見做している王宮の貴婦人達だけだったのでしょうね。

少年十字軍のその後も含めて、熱狂にのせられることの怖さがよく分かる。星野さん本人も本の中で書いているけど、この時代と今とが被る部分もあるのですね。

欧州でのリュートブームもこれを読むと二重の意味を考えさせられますね。