木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

尊属殺人が消えた日 

津雲むつみさんが、この事件を元にした作品を描いていたけれど、そういえばフィクションじゃない方は読んだことがないなあと思ったら、図書館に蔵書があったのでリクエストを出してみました。

今では絶版になっているルポも読めるのが図書館の有難いところですね。さすがに30年以上前に出版されたい本だと古書店巡りでもしない限り読むのがでしょうから。

この本はタイトル通りの本、つまり尊属殺人罪が憲法から消える理由となった事件、中学生の時に実の父親に強姦され、父親の子供を三人も産まされることになった娘が思いあまって父親を殺した事件について、父殺しの罪が適用されるのかどうか裁判で争われた時の記録です。

尊属殺人罪とは、明治憲法時代に制定された刑法で、自分の親、配偶者の親、義親などを殺した場合、通常の殺人罪より罪が重くなるという規定です。

明治は家父長制の時代ですから、国家の道徳倫理として、親は敬うもの、親の言うことに子供は従うものという価値観があるわけです。

で、敬うべき親を殺してしまった子供は国家の定める倫理に逆らったので、通常の殺人罪より罪が重い。

これが昭和も48年にもなってまで残っていたところが凄い。法の下の平等を定める新憲法になってから何年よ。

被害者の弁護を引き受けた弁護人が

「警報が制定された当時の社会的背景と現実の国民の規範意識に変化が大幅に生じた場合には、過去のある特定の倫理観、価値観が法律の条文から排除されなければならない」

 と考えるのは当然だし、一審で「被告人に対して刑を免除する」という判決が出るのも、控訴した検察側が

「あれは憲法問題が絡んできたので、立場上控訴するしかありませんでした。本当に被告は気の毒でした」

 と加害者に対して同情的で、本当は控訴なんかしたくないんだけど、憲法問題が絡んでいるから上にあげない訳にはいかないよね、と消極的態度だったのは理解できるのだけど、ニ審の裁判長と最高裁の判事の発言は理解できないわ。

津雲さんの「緋の闇」かなりえぐい話なんだけど、それでもあれ読者が受け入れやすいようにかなり事実を変えているのですよね。

「緋の闇」では、母親は既に父親に殺されているから娘を犯す夫をとめられなかったけれど、現実では母親は生きていて、しかも母親だけでなく親族も娘が父親に犯されていることを知っているのだけど、娘から引き離そうとすると父親が暴れて手がつけられなくなるので、諦めて黙認しているし。

第一「緋の闇」では、検察側も、裁判所側も殺人者となってしまった娘に同情的だけど、現実ではニ審の裁判長は

「被告は小さい時に、心ならずも父親に手をつけられてのであるから、元はと言えば父親の方が悪いと言えるかもしれない。しかし、その後被告人は父親と十何年も主婦同様の生活をしてきたのに、父親が働き盛りを過ぎた年頃になって、被告人が父親のところを去り、若い男と一緒になると言えば、父親としては被告人が男一人を弄んだことになるのだというような趣旨のことを言ったようにもとれますが、被告人もそのように考えたことがありますが」

「被告人とお父さんとの関係は、いわば”本卦がえり”である。大昔なら当たり前のことだった。…ところで被告人はお父さんの青春を考えたことがあるか。男が三十歳から四十歳にかけての働き盛りに何もかも投げ打って被告人と暮らした男の貴重な時間を、だ」

 と言って、被告側の弁護士を絶句させていますからねえ。

 70年代にもなっても、裁判長が裁判所でこれを言って、一審では違憲とされた尊属殺人罪を合憲とし、しかも過剰防衛は認められないと一審の刑免除を破棄して実刑判決を出しているのですからねえ。

 いやあ、70年代にベルばらが熱狂的に受けた理由がわかるわ。この理屈をおかしいと思わない男が裁判長をしていた時代だもの。

裁判の中で、何度も「なぜ娘は逃げなかった?」ということが尋ねられているけれど、今見るとどう見ても学習的無力感に支配されているから、そりゃあ逃げられないだろうなと思うし、また逃げたとしても当時の社会状況だと生活できなかったでしょうね。

 裁判の途中で、被告側の弁護士は癌で帰らぬ人となるのだけれど、これ父が同じ職業についていた息子に弁護を引き継ぐよう頼むのは分かるし、後を引き継いだ息子が

「私は親父の意思を継いで尊属殺人違憲だということを最高裁に絶対認めさせてやります」

 と言うのも分かるわ。

 最高裁では、二審の判決を破棄して、尊属殺人罪の規定は違憲であると判断し、1人を除いた6名は

「親子の道徳を人倫の基とする考えそのものが家族制度の遺物であり、もともと普通殺人と区別して尊属殺人の規定を置くこと自体が違憲

 としているのだけど、それでも外交官出身の判事だけは

「尊属殺の背倫理性は高度の社会的道義的非難に属するので、刑法200条の法定刑が特に厳しいことはむしろ理の当然である」

 と合憲の姿勢を崩さないところがまた。

 今の無戸籍問題もそうだけど、自分の考える家族制度を変えるような法律の改訂は、確実に不利益を被るものがいてもしたくないと考える人はいつの時代にもいるものですね。

 そして、この事件とは別の性虐待の記録も記されているのだけれど、自分を虐待する父親から逃げ出して娘が児童相談所に駆け込んだのけれど、父親が親権を盾に娘を返せと要求したので、児童相談所は娘を返さざるをえなかった、と記されておりましてね。

 日本の親権強過ぎ問題は、既に70年代には問題になっていたのですね。40年以上ちっとも進歩がないところが凄いなあ。

この件、なんとかして娘を救えないか考えた児童相談所が、裁判所に父親の親権剥奪を訴え、裁判所がそれを認めて父親から親権を取り上げることで、ようやく娘を保護することができたんですよね。

 

無事大人になるまで生き延びたことができた元虐待児達が

「日本は親の親権が強過ぎる」

 と親の親権よりも子供の人権を認めるように訴えているのも無理はないですよねえ。それでも尊属殺人罪を廃止したがらなかった人達のように「子の親に対する道徳義務」を絶対に無くしたくない人達もいるんでしょうね。

親子の関係を情ではなく義務で成立させたい人達はいるわけだ。

 

近親相姦(という名の性虐待)について、疎外感からの慰め的に手近な娘や息子を求めるのは何故か?何故、慰めを配偶者ではなく、子供へ、自分より力関係の弱いものに求めるのか?という問いについて精神医学の専門家が

「戸籍上では夫婦かもしれないが実生活では夫婦ではない。夫婦としての絆はとっくに断ち切られているんです。夫も妻も自らの精神を求めあわない」

 と答えているのを読んで

「酒呑みながら、夫婦で会話するのが一番楽しい」

 と記し、晩酌を欠かさなかった田辺聖子先生ご夫妻を思い出し、ああいう精神的な豊かさに満ちている人を大人っていうのだろうな。大人でないものは、自分に逆らえないものを求めるのか、と思ったりもいたしました。

 

 

尊属殺人罪が消えた日

尊属殺人罪が消えた日