木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

今月の古事記講座をお聞きしたら、内容が濃すぎて整理する前に

「多様性ってほんと大変」

 と溜息をつく中学生の話を読み返したくなったので、本棚から取り出してパラパラとめくっています。

 いや、ほんと多様性について語るなら最低限この本で書かれていることくらい理解していないと拙いですよねえ。

「正義は暴走する」とか「地雷だらけの多様性ワールド」とか章につけられた言葉を読むだけで「多様性は、とても闇いものを内在している」というお聞きした言葉が蘇ってきましてね。

多様性とは自分とは絶対相いれないものの存在を認めるということだから、そう簡単なものではありませんよねえ。

正義と正義。生存競争と生存競争のぶつかり合いになるから、互いにどうしても譲れない一点を守る為に対立が苛烈になるし。

ぶっちゃけ言ってしまうと多様性がない方が楽であることは事実なんですよね。

この本でもその辺りは繰り返し出てきまして

「どうしてこんなにややこしいんだろう。小学校のときは外国人の両親がいる子がたくさんいたけど、こんな面倒なことにはならなかったもん」

「それはカトリック校の子たちは、国籍や民族性は違っても、家庭環境は似ていたからだよ。みんな、お父さんとお母さんがいて、フリー・ミール制度なんて使っている子いなかったでしょ。

でも今あんたが通っている中学校には国籍や民族性と違う軸でも多様性がある」

「でも多様性っていいことなんでしょ?学校でそう教わったけど?」

「うん」

「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの?」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしていると無知になるから」

「多様性はうんざりするほど大変だし、面倒くさいけど無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 今月の講座をお聞きした後だと、多様性の持っている闇を見つめないことは、面倒臭いことを知りたくないから、自分にとって利益のあることではないから、無知でいることを選択しているようにも見えますね。

 でも、そういうのってどこかで何倍にもなって返ってくるんじゃないかな。児童虐待なんて昨今騒がれているように感じるけど、40年以上前の1970年代に実父からの性的虐待から子供を守る為に児童相談所が親の親権はく奪を訴える裁判を起こしているんですよね。

 保護機関が裁判でも起こさなきゃ子供を守れない状態がずっと続いているのも、そういうことは「ないもの」として多くの人達が見ないふりをしてきた結果だものなあ。

 この本、シンパシーとエンパシーの違いについても多く筆を割いているけれど、日本人はわりとエンパシーが苦手な人多いんじゃないかな。

 シンパシーは出来る人は多いと思う。わりと感情豊かな国民だし、「可哀そうな他者」への同情心も厚いし。

 でも「可哀そうじゃない他者」についてはどうなのかな?弱者に対して「清く、貧しく、美しく」を求めたがる傾向があるけど、弱者ってそういう存在ばかりではないよ。

福祉の現場にいる人とか、実際に弱い立場にいる人と接する機会のある人はいいところも悪いところも含めて冷静に見ている感じがするけど(自分を守る為に節度ある距離を保てる冷静さがないと自分が壊れるし)、遠くから見ている人ほど美化したがる傾向はある気がしますね。

 対談だったかエッセイだったか忘れてしまったけれど、作家の恩田陸さんが物語を必要としない人の出現を危惧する発言をされていて。

 シンパシーとエンパシーの区別が出来ない。シンパシーは出来ても、エンパシーは出来ない「他者の靴を履けない」日本人の多さを考えると、作家って本能的に危険を察するなあと感心してしまう。

 自分と違う理念や信念を持つ人や別に可哀そうとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する能力を養うのって物語なんですよね。

 それが演劇でも小説でもマンガでもゲームでも何でもいいのだけれど、「自分ではない他者」の感情を疑似体験することで理解できるのは物語の持つ力の一つですからね。

 作家の北村薫さんの名言に

「人が物語を好むのは人生が一度であることの復讐だと思います」

 という言葉がありまして。(北村さん、元は名物国語教師だけあって言葉の使い方が上手いよねえ)

 人は、自分の人生を一度しか生きられないけれど、物語に触れることで、そういう生き方をしていたかもしれない自分を想像することが出来るんですよね。

 まあ、でもこの国は「小説読むのは時間の無駄」という効率主義者の言葉が礼賛される国だからな。

 それを考えるとシンパシーが苦手な人が多いのも無理はないかもしれませんね。