木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

鬼子母神

山岸さんの虐待話のタイトルは「緘黙の底」だけど、収録作品集のタイトルとなっている「鬼子母神」も怖い話でしたね。

あれを読むと愛は万能でないことも、愛が人に害を与えることがあることもよく分かる。

確か河合 隼雄さんも心理療法家の立場から「昔話と日本人の心」で書いているけれど、山岸さんもよくそういうことを作品にしていますね。

これ、「お兄ちゃんはできる子なのに、あなたは」と母親から言われて育った妹の視点から描いている話なのだけど、母の愛と期待に飲み込まれてしまった兄と違って、母からダメな子扱いされていたことで、母と兄から心理的に距離をおいていた妹は自分を理解してくれるパートナーと自分のやりたい仕事を見つけて自立していくんですよね。

今気づいたけれど、これ第二子の性別は違うけれど、城山三郎さんの「素直な戦士たち」と同じパターンだわ。

愛と期待から長子を潰してしまった母と、母からの愛や期待が薄かったことで束縛されず自由に自分の意志のまま成長していく第二子。

父が無力であることも同じですね。「鬼子母神」と違って「素直な戦士たち」の方の父親は、子ども達に対する妻の対応を心配しているけれど、その行動を止められず、ストッパーになっていませんものね。

西洋の精神病理は父殺し、日本の精神病理は母殺しの形で現れるというけれど、これらの作品にもそれが現れてますね。

母からの精神的自立という形で母殺しをした第二子は、ちゃんと大人になれることが示唆されているけれど、母殺しを出来なかった長子の方は母の愛に飲み込まれてしまっていますね。

それを考えると和田慎二さんが、ピグマリオでラスボスを「母」にしているところが凄いよなあ。母を救う為に旅に出た子供が最後に立ち向かうのも、また「母」。あのラスボスの名台詞

「私を倒せ、クルト。母を慕い、母を思いやるも子の運命、しかし乗り越えねばならぬ母の存在もあると知れい!

戦わねばお前は子供のままだ、母に呑みこまれて生きる者に王たる資格はない。ガラティアがお前の光の母なら、私はお前の闇の母。

私の生命を取って、王たる証を見せてみよ!この戦いの意味が分かるなら……母を倒して見せよ!!」

 これ「鬼子母神」を読むと、凄く納得できるし、その困難さが分かるわ。愛と支配は、表裏一体、紙一重だし、これ気づいてから抜け出すまでが大変なんですよね。

 「ピグマリオ」途中の巻で、連載中に奥様が亡くなって、しばらくの間マンガが描けなくなるほど呆然としていたことも、和田さんにとって、奥様がどれほど大事な人だったかのエッセイマンガが挟み込まれていたけど、和田さん本当に健全な人だったのでしょうね。

 健全な人ではないと、ああいう台詞を出せないわ。

 それにしても少年マンガだと「この兄を倒してみせい!」で、少女マンガだと「母を倒して見せよ!」なのね。どちらも対象である読者にとって説得感のある倒す相手、乗り越えなければいけない対象なのだけど、昨今の物語で「父を倒せ!」というのはあったかな?

 マンガだと「巨人の星」、小説だと「華麗なる一族」以外ですぐには浮かばないな。もっとも「華麗なる一族」は「父を倒す」でなく「父に飲み込まれる」話だから、少し違うかもしれないなあ。

華麗なる一族」、下敷きにしているのは「リア王」だろうけど、やっぱり向こうだと「支配する父」で母の影が薄いなのね。