そういえば「多様性を認めないと戦争になる 多様性には闇がある」は、この本でもよく現れてますね。
フランス革命の恐怖政治もそうだけど「自分達は正しい!間違っているのはあちらだ!」を妥協しないでやると、結局は血と血で争うだけになって、何の実りも残さなかったということになるのかな。
今年の大河が始まった時「あの」幕末水戸藩を描くのかと一部で期待されたけれど、あっさりでしたね。
まあ、日曜夜8時に、あんな凄惨で救いのない話を観たい人はあまりいないでしょうしね。
水戸藩がああいう状態になったのって朱子学の影響も大きいでしょうけど、会津藩と違って藩内に至高の存在がなかったことも大きいよねえ。
「京におわします天子様」は至高の存在だけど、一地方藩の内部抗争に首を突っ込むはずがないし、水戸藩の藩主も我関知せず、でしょうし。
会津藩の場合、藩内で内部対立があったとしても
「容保様をお守りせねば」「容保様が、ああおっしゃるのだ。断腸の思いで従おう」になりますからね。
(でも、会津藩のことだけを考えるのなら京都守護職を引き受ける前の火中の栗談義は「従おう」にならなかった方がいい気がしますけどね。あれ財政的にも、かなり負担だし、どう考えたって貧乏籤ですものね。
引き受けるのを嫌がる容保さんに無理やり押しつけた二人は盛大に梯子を外してサッサと逃げているし。その代わり会津藩は日本の歴史にしっかりと名前を残しましたけどね)
松平容保さんて、わりと日本ぽいリーダーですよね。立ち位置が女性的というか、本人がぐいぐい前に引っ張っていくというより、周りの者達が
「殿の為だ。我らがやらねばどうする!」
と、必死で頑張ったという感じ。容保さん個人は男性的な人でも立ち位置が守られる人ですよね。
兄弟姉妹論の本を読んでいた時、家族関係が作風に影響する例として永井豪さんがあがられていたのですが
「男兄弟の末っ子として生まれ、兄達に自分の仕事のマネジメントを担ってもらってきたという永井豪の境遇が戦うものの存在を孤独にしない。永井豪のヒロインは守られながらたおやかにりりしく存在している」的なことが書かれていまして。
ようは永井豪は「弱いから守る」ではなく「大事だから守る」という描き方をする人で、だから永井豪の女王キャラ(女性リーダー)は、孤独なリーダーとはならず、周りの者に守られながら、たおやかにりりしく君臨している。
それは実生活で兄達に助けられてきた永井豪の実感からくるものだ、ということなのですが、松平容保さんも立ち位置で言えば、これに近いかなあ、と。
日本の場合、こういうリーダーの方が上手くいくことが多いような。まあ、会津の場合「殿は我ら家臣を裏切らない」という信頼がありましたしね。
徳川慶喜さんに巻き添えを喰らわされて、開陽丸に乗せられてしまったことを家臣団の前で謝っていますものね。
結果として、家臣を置き去りにして逃げてしまったことを心底悔いている姿を見たら、目下の者に自分の過ちをきちんと詫びることが出来る方だ、と家臣達も許すよねえ。朱子学の影響があったうえ、こういう存在がいなかった水戸藩がああいう結果になるのは当然かな。
この話、読み終わった後の寂寥感がなんとも言えなくて最後の一文は、いつ読んでも泣く。未来を夢見ていた少年少女の行きついた先がこれ。
小説家の力量って、締めの一文に強く現れますね。