木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

原爆 広島を復興させた人々

東日本震災で、惨状の大きさに手が回り切れず体育館にもののように安置された人々を「ご遺体」として荼毘する為に、全力を尽くした人々の姿を記したように、石井光太さんは「自分の力では、どうにもならないと分かっていることに立ち向かう勇気ある人々」の姿を記すのが好きですよね。

天災にしろ戦災にしろ逃れようのない大きな悲劇が街を襲った後、遺された人々がいかに悲劇と闘ったのか。
石井さんにとっては、そういう人々の姿が記録し伝えるべき価値のあるものなのでしょうね。

泥の中の蓮の花を書き残すことを自分の仕事をしているのでしょうね。

 

「広島の原爆がどんな恐ろしいものであったかを、世界中の、そして後世の人に分からせるのは誰かがやらなければならない仕事である」
と、原爆症で身体がどんどん蝕まれても被爆資料の収集を止めず、焦土から原爆の痕跡を掘り起こしていった原爆資料館の初代館長 長岡省吾。

 

被爆時に自宅にいた為に死を免れ、生き残った同僚達と炎に飲み込まれた市役所の代わりに焼け残っていた職業安定所を臨時の防災拠点とし、配給課長として大勢の市民を飢餓から救い、後に市長として広島の復興に尽力したことから「原爆市長」と呼ばれた浜井信三。

 

長岡が収集していた被爆資料を目にした浜井が、被爆の実像を後世に伝える為に資料館の設立を決意し、世界に向けて平和を発信させる拠点の建設を目指した時、この一大プロジェクトに呼応し、平和記念公園や資料館の設計を手掛けた建築家 丹下健三

 

損傷が激しく取り壊すべきだという声もあった原爆ドームを悲劇の象徴として残す為に全国を駆け回って保存運動に尽力した市職員 高橋昭博

 

この四人を中心にして廃墟になった広島に集まり「広島を必ず焦土から平和都市として生まれ変わらせる」 と復興に心血を注いだ人々の足跡を記しています。


 彼らは、何故自らの命も顧みずに焼け野原に向かったのか?
 どんな思いを抱いて平和記念公園や資料館をつくったのか?
 ヒロシマに託した願いとは何だったのか?


 ウクライナ侵攻以降、原爆資料館は訪れる外国人観光客が列をなし、来館者が日本人より外国人の方が多い日々が続くと聞きます。
 彼らは何故資料館を訪れようと思ったのか?
 資料館を作った人々と資料館を訪れようと思った人々。そのどちらの側も思う願いは同じかもしれませんね。

原爆 広島を復興させた人びと

原爆 広島を復興させた人びと