木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

9で割れ

 先日、東京で原画展が開催された矢口高雄先生の銀行員時代の話が Kindle Unlimitedで読み放題になっていますね。

矢口先生の自伝自体が、今では変わってしまった当時の農村の生活の貴重な記録となっているという評価もありますが、それで言ったらこの話は昭和30年代から40年代の地方銀行員の生活は、どういうものであったのか、という記録でもありますね。

「ぼくの学校は山と川」は教科書にも採用されたそうですから、矢口先生の少年時代の話は読んだことはある人は多いのではないかと思いますが、大人になってからの話は読んだ人はどのくらいいるのかしら?

 

矢口先生、中卒で就職するところを担任の先生が

「こんな優秀な子を進学させないともったいない」

 とご両親をくどし落としてくれったから進学出来た人で(経済的にかなりきついから、お父様は悩んだのだけど、お母様が「先生がここまで言ってくださるのだから頑張ろう」とご夫君を説得されたのですよね)

 だから矢口先生の生まれた村では、先生が初めて銀行員になれた人で、そういうこともあってか当時の銀行員の生活がしっかり記録されているのが面白い。

 計算機もまだない時代だから、そろばん片手に業務にあたるのは想像出来たけど、銀行員に宿直があったとは知らなかったわ。ちょうど高度成長期に差し掛かった頃の銀行員だから、世の中の変化を実感出来る現場にいてお仕事楽しかったでしょうね。

 銀行員でなければ山林地主が保有する日本画の名画を直近で心ゆくまで堪能できるということはなかったでしょうしね。

「ほぼ独学で身につけた筈なのに、あの絵の上手さはなんだ⁉︎」

 と矢口先生については言われることだけど、生い立ちからくる観察眼に加え、青年期に名画を堪能出来た経験は大きかったでしょうね。

エネルギー革命中だったことに加え、戦後復興で木材需要の大きかった頃だから山林地主が豊かさを保てた時代の話ですね。

 地主が山の管理に悩む今とは時代の変化を感じますね。時代の変化を感じるといえば、ちょうど矢口先生の奥様が出産された頃が大方の出産が自宅出産から病院出産に変わる頃なのですね。

 義理ある助産師に気兼ねをしつつ

「でも、子供を産むなら安全に産みたい」

 と病院出産を選択した矢口先生の奥様のような選択が増えたから、病院で産むことが一般的になったのでしょうね。実際、妊産婦死亡率は病院出産が増えた頃から激減していますものね。

 矢口先生の奥様は、病院出産を選んだことで義理ある助産師に嫌味を言われておりましたが、助産師でも自宅出産が減ることを喜ぶ助産師もおりまして。理由は

「良かった〜!これで妊婦の状態が急変した時、お医者様と協力してお産にあたれる!」

 通常のお産なら、助産師一人でお産にあたっても問題はないのですが、お産て何が起こるか分かりませんからね。緊急時に自分だけで母子を救えるか?のプレッシャーから解放された喜びを語るお産婆さん(助産師さん)の記録が残ってますね。