木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

インディアンとカジノ

アメリカの暴動が起きている時に読んでいるとアメリカの抱えている矛盾とかアメリカ社会の本音と建前とか色々見えてきて面白い。


アメリカインディアン史って単純に先住民族の歴史というだけでなく、アメリカ社会の複雑さや厄介さを映し出す鏡にもなるから凄く面白いんですよね。
そもそもアメリカ建国からして「既に部族国家社会があった土地に新たな新国家を建てる」という矛盾があり、それを「侵略」ではなく「正当な手段と手続きで手に入れた」と主張する為には、各部族と条約を締結して土地と引き換えに部族に「自治」と「保留地」を約束しなければばらなかった。


条約内容が守られることが前提として、インディアン部族は土地を譲渡したのだから、アメリカはインディアンに対して条約に記載された内容を施行する義務を負う。


つまり「信託契約の報奨金として前払いで土地を渡したのだから、契約はきっちり守ってね」とインディアン側は言うことが出来るし、アメリカ国家は「アメリカは他国家と正式な手続きを踏んで条約を交わしても自国の利益の為なら、その条約を無視できる信用ならない国だ」との評価を国際社会で与えられない為にもインディアン側と結んだ条約を守り続けなければならない。


しかも、この報償として土地を渡したというのにも一つ問題があって。
土地の所有というものに対して、渡ってきた欧州人側とインディアン側では概念が違っているのですよね。
土地はその土地の所有者とされている人のもの、という考えなのに対し、インディアン側は土地は自然のものであり、人はその土地を管理する権利を自然から託されているもの(インディアン側で土地の所有権を持つものに女性が多かったのも、他部族との戦争等で自分達の土地を留守にすることの多い男性よりも土地を離れない女性の方が管理者としては適任であるという考えがあるから)
所有権と管理権。自分の土地だから自分の好きにしていい、と、自然から借りているものだから返す時に元の状態が損なわれていることがないように使用しないといけない。

 

土地の所有というものに対する概念だけでこれだけの違いがあるのにイギリス系とフランス系でインディアンに対する態度が違いがあるのも面白い。

土地を求めるイギリス系に対し交易を求めるフランス系。

イギリスの入植政策ととはいえば天然痘患者の着ていた服をインディアン側に渡し、疫病で人口が激減した土地に入植者が入っていき、入植地を拡大していったえげつない政策が有名ですが、これフランス系はしてないようですね。

フランス系は土地の獲得ではなく、インディアンとの交易を目的としていたので交易相手がいなくなったら困るわけですよ。

毛皮の仕入れ先が無くなったら故国で高く売れる商品が手に入らなくなってしまうじゃないですか。
困るのは商人だけでなく新大陸での布教を目指してやって来た宣教師達も困る。故国と自然環境の違う知らない土地で、現地事情に通じたガイドがいるか、いないかは旅の成功と失敗に大いに影響しますもの。


赤毛のアンのシリーズに「アンの村の人々」というアヴォンリーの住
人達を主人公にした短編集があるのですが、そこに「草原の美女」というインディアンの女性を主人公にした作品があるのですね。
はっきりとした描写がないので初めて読んだ時は気づかなかったのですが、読み返した時彼女がインディアンの女性であり、だから彼が無自覚で彼女を恋愛の相手として排除していることに気づいてなんともいえない気分となったのですが、それでもこのインディアンの女性が魅力的な人物として描かれていることは間違いないので、この時代の白人作家としては珍しいなと思ったのですが、モンゴメリーはカナダ人作家ですものね。
舞台とした土地がフランス語圏なのか英語圏なのかは分からないけれど、インディアンに対する感情がアメリカとは違っていたのかもしれませんね。
モンゴメリーの作品にはヤンキー(アメリカ人)に対する冷めた目線もよく出てくるし。

 

イギリス人入植者の土地の略奪に辟易したインディアン側がフランス側に近づくと、イギリス側は更にインディアン側を敵視するので、インディアン側は更に多くの部族が自分達を守る為にフランス側につく。
そうなるとイギリス側がまだフランス側についていない他の部族を篭絡して自分たちの味方にしようと画策する。

このあたりのアメリカ史って凄く面白いのだけど教科書だとさらっと流してしまうから面白さが伝わらないんですよね。
そもそもアメリカ独立戦争をイギリスからのアメリカの独立と簡単に流す程度の時間しかカリキュラムに組まれていないから仕方ないんですけどね。
イギリスとイギリスに味方したインディアンの諸部族。アメリカとアメリカに味方したインディアンの諸部族。
更に反イギリスとしてアメリカ側を支援したフランス・スペイン・オランダの思惑
こんなのやっていたら、とてもじゃなういけど時間が足りませんしね。

アメリカインディアン史って公文書に書かれていなかったことから、どうやって隠されていた事実を読み取るか?の訓練にもなりますね。

 

1778年に制定されたアメリ憲法にはインディアンについて書かれていることはほとんどない。僅かに書かれた文章から読み取れるのは
インディアンが連邦を構成する州民ではないこと。
インディアン部族はアメリカにとっては外国ではないが、それと並列化されうる固有の政治組織であり、ゆえに連邦議会のみがその関係を担うことが出来ること。

つまりアメリカは建国時から自国の中に自国の権限が及ばない独立国家を抱えた国なんですね。
「他国家との条約を守れない国」という国際社会での信頼と評価を低下させない為、また現実的に条約を破棄して土地を返還することは不可能な為、アメリカの司法側は保留地内の自治を認めざるをえず、アメリカの行政側は保留地内にアメリカの州法を適用させたがる。

この州の自治権と部族の自治権の対立は過去何度も繰り返されていますね。

 

州の自治権を優先したインディアン強制移住法。この法律、強制移住時に連邦政府がインディアンに約束した支援が届かず、移住の途中チェロキー族は寒さと飢えで4000人が死亡。その遺体を運びながら移動してますね。

 

カリフォルニア州によるインディアンの強制労働を実質合法化する「インディアンの統治及び保護の為の法」制定

内務省インディアン局による同化政策

アホリニジの「失われた世代」は有名だけど、アメリカの同化政策もえげつないですよね。

同化政策の結果、保留地には貧困のみが残された」

 と書かれても当然なことをしているし。それにしても

「良いインディアンは死んだインディアンである。つまりインディアン人種は全て消滅すべきなのだ」

  と語った人間をよくインディアン学校の校長にさせたなあ。これ対インディアン戦争の時の言葉かと思ってましたわ。この言葉の後に

「インディアンは殺せ、そこから人間を救え」

 と、続くのがまた。インディアンは人間じゃないからインディアン文化を抹殺して、そこからキリスト教的文化を身につけさせることによって救ってやれ、ということを微塵も疑わないことが読み取れるから怖い。

  これはインディアン学校時代をトラウマにする人が続出するのは当然だわ。

 

「19世紀初頭から20世紀初頭までの政策はインディアン社会に打撃を与え、人口の減少と経済的な貧困をもたらした。しかし身体的精神的暴力によって消滅したのはインディアンではない。むしろアメリカの良心そのものである」

アメリカの面白いところは、こういう良心を無くすような行いを平気でするくせに揺り戻し的に良心を取り戻そうという動きが出てくることですよね。(そして、その後また良心を取り戻そうとする動きへの揺り戻しが出てくるところがまた)

部族の自治、部族と連邦のパートナーシップ関係、インディアンであることの特殊な地位と権利は国の政策によっていつでも消滅しうるものであると思い知ったインディアン側が「自分達で自分達の将来を決める」とインディアン復権運動を起こすのは当然の帰結でしょうね。

 

それにしても60年代のブラックパワー運動やレッドパワー運動を見ると第二次世界大戦の従軍経験が有色人種に与えた影響って大きかったですね。法整備や制度的基盤も60年代から始まっているし。

インディアンがカジノを経営することについてアメリカ社会やインディアンに対して関心がある人達について冷ややかな目もあるそうだけど、元々ギャンブル自体はインディアン文化の中に根づいたものなんですよね。

神意を占う為に使ったり、日常の娯楽として賭けを楽しんだりしているのでギャンブルに対して悪印象がない。それに加えて国に頼らず部族を貧困から救う為の手段がこれしかない、となったら、そりゃあカジノ産業に乗り出すでしょうね。他に方法がないんだもの。

 

多くのリスクや、その選択をした為に諦めなければならないことを引き受けて「自活、再生、自由、自治」の為にカジノ産業を選択するか。それともカジノを選ばず貧困や痛み、貧困ゆえの兄弟の死だけが残る状態に甘んじるか。

カジノ産業を選択する前の上下水道設備の整っていないトレーラーハウスで、国内平均よりも70%も低い平均収入と国内平均の10倍の失業率、44歳の平均寿命で生き続けるか。それとも、それを変える為に激流に岩を投げ込んで、それをステップに河を渡るか。

 

 始まりが州のタバコ税がかからない保留地内での非課税タバコ販売というところが面白い。

保留地での経済活動を困難にしていた土地の所有状況や保留地の特別な法的地位を逆手に取った新しい保留地ビジネス。保留地ならではのお得があれば保留地外から人が来る。来た人が金を落としてくれれば保留地のインフラ整備ができ、消防署や学校が設立され、生活、医療、住居などの様々な福祉分野から森林保護、博物館や図書館などの文化自治をまわす為の原資となる。

 

インディアンカジノの歴史を見ると経済的自立なくして文化的自立なし、というのがとてもよく分かる。

免税ビジネスであるうえ、ギャンブルにはマフィアがつきものだから州法の及ばないカジノを取り締まりたい州と貴重な収入源であるカジノを州法による規制から守りたいインディアン側との間の駆け引きの結果、インディアンカジノ産業がいかに法制化されていったのかという流れも面白いけれど、インディアンカジノ産業を巡るネバタ州とカリフォルニア州との対応の違いも面白い。

 

ラスベガスを抱えるネバタ州がインディアンカジノ産業に反発するのは分かるけれど、最初はインディアンカジノ産業を警戒していたカリフォルニア州が税収の増加と雇用創出というメリットがあることがハッキリしてくると地元産業として地域経済の活性化を期待しだすというのも分かりやすいですね。

今カジノ産業は一大レジャー産業なのでカジノだけでなく多くの関連施設があるのですね。送迎バスの運転手、レストランやホテルの従業員、ショッピングモールの販売員等多くの仕事がありまして。

 そうなるとインディアン部族だけじゃなく保留地近隣から通勤して来る人達もいるわけで。

 

新規カジノ開設を渋って部族との契約を結ぼうとしない州知事に対して、インディアン側がこの件を住民投票に持ち込んだ時、部族が積極的に訴えたのは、部族カジノがいかに州内の雇用を創りだすか。

これは住人落ちるわ。非インディアン側が雇用を期待して積極的にインディアンカジノ誘致を訴えているし。これ、インディアンカジノ法で収益金の用途が限定されているという点も大きいのでしょうね。

 

収益金の用途として規定されているのは

① 部族会議の運営やプログラムの資金

② 部族の成員の為の一般的福祉活動

③ 部族経済発展の促進

④ 慈善団体への寄付

地方自治体への資金援助

 

全ての部族がインディアンカジノを経営しているわけではない。また、インディアンカジノを経営していない部族が全てカジノ反対派というわけでもない。

インディアンカジノ産業がインディアンの貧困からの脱出に向けていかに効果的に運営できるのか自治権を持つ部族の手腕が問われている。

ものごとには全て光と影があるようにインディアンカジノ産業にも影の部分がある。

インディアンカジノ産業から真に利益を得ているのは、元来アメリカが責任を負うべき部族自治の保護をカジノ部族に丸投げした連邦政府やその収益の一部を得ることができる州という見方もある。

それでもインディアンカジノがインディアン社会を文化的な植民地という状態から、文化的自治の名のもとに部族文化を守ろうとする各部族独自の活動を活発化させたことは事実なんですよね。

「我々は一つの民族、一つの伝統、そして一つの国家である」

 一番最初にインディアンカジノを開いたカバノン部族のホームページの最初の言葉。

カリフォルニア州を相手に7年間法廷闘争を戦い、インディアンカジノを認めさせたインディアンリーダーはインタビューアーの言葉にこう答える。

「ジョー、あなたはこの小さな部族を代表して州を相手に闘った。カバノンは二度ほど破産を経験しそうになったと聞きます。なぜ、それほどまでしてカジノにこだわり7年にもわたる裁判を続けられたのですか」

「絶対に勝てると思ったんだ。だってカバノンは『国家』なのだから、自治があるんだ。それは1830年代のマーシャル判決でも認められている。私は州がなんて言ってこようが気にしないよ。あくまで交渉相手とすべきは連邦政府なんだよ」

 自治国家として交渉すべきは州ではない。交渉相手はその上の枠組みである国家。

「部族が交渉すべきは国家である」これは建国以来部族が一貫して持つ政治権利である。しかしカバノン裁判以前多くの部族にとって、それは実生活と直結するような具体的な権利ではなくなっていた。

 実際多くのインディアンがそうした権利を追求することなく貧困のなか保留地を去ったのである。カバノン裁判について語るベニッツの言葉からは国家の『良心』を維持しきれなかったアメリカへの反発と自らアメリカの『良心』を再び思い起こさせたという自負心が感じられた。

インディアンカジノ時代の突破口を開いたのは保留地での貧しさを経験し、それでも保留地を去らずに部族主権、部族自治を諦めなかったリーダー達である。

インディアンカジノ時代とは部族とそのリーダー達が現在進行形で『国家』とは異なる価値観、異なる社会、異なる自由を求め挑戦を続ける時代である」

 この言葉をアメリカ暴動の最中に読むと「問われているのはアメリカの『良心』」という言葉と誇るべきリーダーを持つ社会と持たない社会ということに思いを馳せたりするのです。

 

 

 

 

 

 

インディアンとカジノ (ちくま新書)

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