ふと思い出して、古い少女マンガで
「仕事も出来て、地元の名家の息子なのに偉ぶりもしない凄い人。なのに奥さんに我儘な奥さんに家出されたんだって。可哀そうだね」
と世間から見られていた人が、実はサイコパスなモラハラDV野郎で、逃げ出した奥さんと結婚した理由の一つが、奥さんは家庭の事情で実家を頼ることが出来ない人で、何かあっても実家に自分の苦境を訴えることが出来ないので、大人しく自分に従うだろう、と見越してのことだった、という作品があったと思うけれどタイトルなんだったろう?と思って調べたら吉村明美さんの麒麟館グラフティでしたね。
これ逃げ出した妻が発熱の為に動けなくなって道でうずくまっていたところを助けた女性がDV夫を憧れの先輩として片思いしていた人で。
あんなよくできた素敵な人から逃げ出すなんて、どれだけ我儘な奥さんなんだろう、と思っていた女性が大人しい遠慮がちな美人で。
思っていた人と違うと思いつつ、家に帰りたがらない女性を迎えに来てもらうよう夫に頼みに行ったら、憧れの先輩だと思っていた人のあまりの言い分にぶち切れて、妻に向かって
「気のすむまでここにいればいい」
と宣言するのですね(助けた女性の家は下宿屋で、他の住人もいるし、妻がいても困ることはない)
憧れの先輩がサイコパスなモラハラ野郎と分かっていて、その言い分に心底腹を立てているのに恋愛感情を捨てきれない後輩の女性とか。
夫に対して絶望していながらも、自分も感情がある人間であることを夫に理解して欲しいという願望を捨てきれない妻とか、個々の感情がとてもリアルでしたね。
DVやアルコール依存症関連には大抵共依存の問題も出てくるのだけど、共依存についての本の中で、この作品について触れているのを読んだことがありますね。
共依存で支配している方、支配されている方、双方が相手に依存しあって成立している状態で、二人の女性が愛という名の支配から逃れて共依存から抜け出す(あるいは陥らない)ことが出来たのは互いの存在があったから。
恋愛という関係だけでなく、友情という関係もあったから(「私の大事な友達である貴方」という自分の存在を肯定してくれる関係もあったから)、「こういう形の愛もある」という愛のもっている罠にはまらずにすんだ。
愛の持っている危険に絡めとられずに欺瞞から逃れることが出来たのだと評されていましたね。
古い作品なのだけれど、絶版にならずに発行され続けているのは今でも必要としている人がいるからでしょうね。
DVや虐待という問題が世の中にはある、ということが社会の共通認識になったのは、そんなに古いことではありませんしね。
優れたフィクションに触れて、これは自分だと気づく人もあったのでしょうね。マンガでも映画でも小説でも優れた物語は気づきを促すことがありますね。