木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート

東京では、30日まででした。間にあって良かった。(地方公開は、これからだそうだけど)
もう一つのオリンピック映画はそそらなかったけど、こっちは観たかったの。
この題材ならくっきりと政治色を出すことも出来ただろうけど、そうならなかったのは、
「いきなりふってわいた引越しって、ホント大変ですよね。お気持ちよく分かります」
 と言いたくなるような住民達の言葉や態度。
悲劇と喜劇は紙一重で、団地の人達がどれほど大変で困っているかは画面から滲み出ているんだけど、どことなくおかしみがあるのね。
「私、来年90よ。この年で引越しなんて」
「木造の時に『オリンピックが来るからこんな建物があったらみっともない』と追い出されたんだ。また『こんな建物があるとみっともない』から追い出される。二度もオリンピックで追い出されるんだ」
 こういう言葉をシュプレヒコールをあげて言うなら、よくある政治批判映像なのだけど、生活臭溢れたお茶の間でご近所の人達とお茶飲みながら「困った、困った」して、降ってわいたどうしようもない事態に対処する為に
「あんたのところは、どうするの?」
 と、情報交換している姿が、ホームドラマのようだなあと思いました。
 ポスターは、取り壊された後のアパートだけど、映画の中にはこの光景は出てきません。
 描かれているのは、団地の前を掃除したり、皆で草刈りしたり、団地の前に集って神宮の花火を見上げていたりした人々の暮らしと、そういうものを手放さなければいけないという決定に悩み、困りつつ、従わざるをえない姿。
 偶然、この映画を観る前にPlan75を撮った早川監督からお話を聞く機会があって、監督があの映画を撮った理由について
「あれを撮ろうと思った理由は怒りです。選択が出来ない状態にしてから選択させておいて『自分が選んだろう』と自己責任という言葉で、怒りすら持てないように封じ込めようとすることへの怒り」
 と語っていまして。
 この映画の冒頭に出てきた「ここにいたい」という選択肢のない移転アンケートで住民が移転に賛成しているというデータが作られていく姿に、早川監督の言葉通りの光景だなあ、と思いました。

 

この映画を観て連想したのだけれど、京都に行った時に、習いごとの宗匠のお勧めの鏑木清方展に皆で行きまして。
何故、お勧めだったかというと京都の回顧展では、東京では展示のなかった「築地明石町」の下絵があったんですね。
東京で観た時も思ったけれど、鏑木清方の絵を観ると「江戸っ子は故郷喪失者」という言葉を思い出しますね。
彼らの愛した江戸は明治維新で瓦解し、その残り香も震災と戦災で消えてゆく。
鏑木清方、子供の頃の思い出として
「朝になると人々が家々の周りを掃除する。あんな綺麗な町はなかった」 
 と、語っているけれど、その美しい町を作り上げていたコミュニティへの誇りと、そのコミュニティが泡沫の夢と消えた寂しさが滲んでいますね。
 こういうコミュニティの価値とそれが消えることによって何が失われるかを理解する為には、場の価値を測る為の物差しを経済の他にも持っていないと難しいでしょうね。(´-ω-`)

www.tokyo2017film.com