木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

緘黙の底

先日、子供の虐待防止対策イベントに参加して、虐待サバイバーの方のお話をお聞きしたのですが、山岸涼子さんが、代理の養護教諭が主人公で、小学生の女の子が実父に性的虐待されている話を描いていましたね。

調べたら、1992年の作品だ。この時代に、既に問題児とされる少女の問題行動が父親からの性的虐待からくるものであることを。

そのことが分かっても、周囲の人間は少女の虚言だと思って信じてくれないことを描いているんですよね。

問題行動を起こす少女に向かって、主人公が

「もし、先生の言うことが間違っていたら、あなたは先生のことを怒っていい。

もしかして、あなたお父さんにいやらしいことをされてない?」

 と、尋ねた言葉に少女が無言でぼろぼろ涙を流した後も、一緒に話を聞いていた男性教師は

「あの子の・・・虚言です。同情を引こうとの・・・」

「あの年齢が持つ性への憧れからくる妄想ですよ。何かちょっと崩れたカンジのする子だった たしかに」

 と、信じない。こういう虐待されたことが分かっても信じてもらえないって、現実でもよくあることなのでしょうね。

この話の場合は、主人公がバッサリ否定する。

「やめてください!妄想でこんなこと言えません。実の父親に犯されたなど口が裂けても言えないことなんです」

 それでも事実が信じられない男性教師が

「父親はハッキリ否定しています」

 と、応えると主人公は

「当たり前です。そんなこと認める父親はいません」

 こう反論する。普通の感覚を持っている男性教師が、それでも信じきれなくてしごく普通の反応を返すと、普通の感覚を持っている人が理解しやすいように主人公は説明する。

「だからその欲望・・・だけど ふつう我が子に感じますか?」

「彼等は自分と同等もしくは上の人間には欲望を感じません。我が子であるというより前に“あきらかな弱者”ゆえ安心して欲望するのです」

「自己の無力感をはらすためにさらに無力な子供をねじ伏せるのです」

 実は、主人公は実父から性的虐待をされかかった過去があり、既に父親から性的虐待を受けていた姉が妹を守ろうと父親を刺したことで保護され助かったのだけど、姉は保護された後も性的虐待のトラウマから逃れられず身を持ち崩していた、という過去の持ち主だったんですよね。

姉を犠牲にして自分は助かったという罪悪感が問題行動を起こす少女の悲鳴を見逃さなかったんですよね。

虐待防止イベントで、相談窓口に虐待サバイバーの方と専門家がチームを組んであたることはできないだろうか、という話があったのだけど、この話を読み返すと、あの提案て凄くいいアイデアだと思うなあ。

この問題に無関心な側と関心を持ち続けてきた側では30年の意識の差があるわけだし、声なき悲鳴に気づきやすい人と傷を癒す為の専門知識がある人がタッグを組むというのは、救える人を増やしそうですよね。