木曜日の本棚

本と本に関することの記録です。

三原順の言葉を考える

「コロナさえなければ札幌まで行ったのに!」
 という嘆きの声もちらほら聞こえる「没後25年 三原順の世界展」ですが、いよいよ15日までですね。札幌近郊の人達は繰り返し行けるからいいなあ。

 図録は通販しているけれど、三原さんのお友達が持ってきてくださった色紙や会場タペストリーは図録では見られませんものね。
それにしても開催中に新たに原画が見つかるとはさすが地元!コロナを恨む人多いだろうなあ。

 今回の原画展、北大の学生さんもスタッフとして参加されているようで。三原さんの没後生まれた人達がスタッフとして参加するくらい魅かれるものがあるんだなあ、と感慨深く思っていたら
「北大の倫理学の講義で男性の先生とお話ししたら連載当時は哲学科の学生の必読書として読まぬ人はいないほどだったそうです」
 という言葉が流れてきて、裏話ありがとう!という気持ちになりました。「頭で知っている」から「心で知るまで」で授業が作れそうですものね。

 関連トークイベントとして、こちらも15日までの期間限定で「三原順のことばを考える」が動画配信されてますね。

youtu.be/Ir_BE8GnPVU


司会の北海道新聞の記者さんはリアルタイム世代か。漫画家さんと詩人さんは古本やお姉ちゃんからの縁で、ということは、もしかして手に入りにくくなっていた頃に初めて会った世代かな?とか世代ごとの初めての出会いを思ったりして。

 どんなに人気があっても作者が亡くなってしまうと絶版になってしまうこと多いですものね。
 それを考えると今でも全作品を読めることは有り難いし、その為に努力し続けてくれた人達の活動に頭が下がるわ。
(そういえば復刊ドットコムの創業時の話を書いた本に「復刊ドットコムが軌道に乗ったのは三原順さんのファンのおかげです。ありがとう!」と謝意が書かれてましたね)
 
 それだけ、この本をこの世界から消したくないという思いが強かったのでしょうけど、絶版復刻後に触れた世代とリアルタイム世代が同じように「三原順の言葉」についてそれぞれの言葉で語り合えるくらいだし。

 

 人生の早い時期に印象深い言葉に会うと影響は強く残りますよね。日本の漫画文化って親が選んだ本ではなく、子供が自分で欲しい本を買える日本の住環境が影響しているという説を読んだことがあるけれど(海外だと治安の関係で子供だけで買い物にというのが難しいので)、小学生だって、これは自分の為の本というのは分かりますしねえ。なんだかよく分からないけど好きだという本はあるのよ。

「子どもなんて大嫌いよ!傷つくことだけは一人前で!」
 と
「よくやった事の報酬は、それをやったって事だけさ」
 が、語りたい言葉として挙げられているのが「ですよね!」という感じですが。語りたい言葉を語る時、その言葉のどこを語りたいのか、どこに惹かれるのかにそれぞれ自分の言葉で熱を語るのがとても面白い。

 今読むとクークーって自閉症とは少し違うような。(まあ、三原さん自身も自閉症とは描いてないんだけど)
「私は消えた!私は生きていない!だから、もう誰も私を殺せない。消えた。もう誰も私に気づかせるな!外の世界も私の心も!私に気づかせるな!私がここにいる事を!私はいない!殺されない!」
 というモノローグがあるから虐待サバイバーと印象がかぶるんですよね。(それにしても、このあたり今読み返すと三原さん「夜と霧」相当読み込んだんだろうなあという気がしますね)

 こうやって世界を拒絶して自分を守っているクークーに対して
「ボクなら信じない 恐ろしさに全てを忘れ動けずにいる者にはじっとそうしている事が幸福で安全だなんていう奴は!
 ボクは信じない 岸でのんびり忠告してくれる連中なんて〝そこにいちゃいけない 我々の所に来い〟行けるくらいならとうに!言われなくても行ってる だからボクは助けに行くんだ 」
 と、行動するサーニンがいるから「カッコーの鳴く森」は名作なんである。

「傷つき 損なわれた心にどれほどの訂正をーーー新たに焼きつけたなら埋め草になるのかどうか知らないけれど 
はたしてそれが埋め草になるのかどうか知らないけれど」

 これがあの振り向いた笑顔と一緒に並べられているのだから「よくやったことの報酬は‥‥」という台詞が生きるんですよねえ。そういえばトークショーの中でも
「この髪はいいかい?幼少のみぎりより母親似と評判のオレ様がせっせっせちとののしりの声にも負けずここまでのばしたもの 
ホラ髪がのびた今オレ様すっかりママのようだろ!だからオレはママになるの ママになってオレはオレを生みなおすの!」
 という言葉が絵と一緒に読むか、言葉だけで読むのかでまるで印象が変わるという話が出ていましたね。

 まあ、確かにこの時のあの表情がなかったらまるで印象が変わるでしょうしねえ。だって、その後に続くモノローグが
「だって ママ『年代記』にでてきた赤ん坊は生きてゆけなかったってさ
 ドイツ皇帝フリードリッヒ二世 生まれたばかりの赤ん坊を隔離した 
授乳は認める 風呂に入れるもよかろう それから それから 
けれど決して話しかけてはならない!赤ん坊に聞こえるような所では誰も口をきくな

 やがて赤ん坊はどんな言葉を話しだすだろうか?最古の言語 ヘブライ語だろうか?ギリシャ語か?ラテン語か?それとも両親の使っていた言葉だろうか?

 その赤ん坊は生きてゆくことができなかったってさ 生きてゆくことができなかった 愛撫されることも 楽しげな顔を向けられることもなく 優しげな言葉もかけてもらえなかったので」
 ですからねえ。その後に続く言葉がこれなのがとても三原順
「だから‥‥ママ、もういいんだよ ボクがどんなふうに生まれ どう育てられ何を思ってたか 
でもボクは生きてきた!だから‥‥もう‥‥それだけで‥‥いいよね‥ママ」

 トークショーの中で
「申し訳ありませんが ボクはこういう媚びを売ってそれだけで生きている様なのは腹が立って 可愛さだけで何も満足にできないくせに」

「あらまあ‥そう‥‥でもねジャック、この子達は何も持っていないから可愛い姿で媚を売っているのよ
 鋭い牙は丈夫な足をもった犬がそれを武器にする様に この子達は人間に守ってやりたいと思わせる事を武器にしているのよ 
 そして私の様にあっさり降参してしまう人間もいるわ もしジャックが それでもそんなやり方は許せないと言うなら媚びを売ってはいけないと言うなら‥‥代わりにこの子達に何をくださるのかしら?」
 という言葉が紹介されてまして。

「思春期のリアル中二病時代って愛玩犬を見て『こんなの媚び売ってるだけじゃん』とか言いたがるじゃないですか。その先があるんだ、ということにガツンときて。
『それだけじゃないんだ』ということを、あの時代に示してくれた。『その先があるかもしれない』と思わせてくれたというのが三原さんで‥‥」
 というような語りをされてまして。私は「ロングアゴー」だと
「守られようとする者はいつま迄も守られ… 気遣おうとする者はいつ迄も気遣い… 戦おうとする者はいつ迄も相手に不足する事なく…」
 の方が印象的だけど「こんなの媚び売ってるだけじゃん」でとどまってしまう人の多さを考えるとティーンエイジャーのうちに「それだけじゃないんだ」を示してくれる存在に会えるのか会えないのかの差って大きいのかなあ。

 

 ティーンエイジャーといえば今回の原画展に関するツイートで「XーDay」の中でアデールが読んでいた本のタイトルが分かったと紹介されていたけれどバロウズ・ダンハムの「英雄と異端 反権力の思想史」でした。

 日本だとみすず書房から出ているやつですね。アデールにこれを貸した友達どれだけ読書家なんだろう?アデールが14歳だから、貸してくれた友達も同じ年頃でしょうしね。
 もっとも「14歳」という年齢とアデールの置かれた状況を考えると、家族の中で己の立ち位置を「異端」と捉えていた14歳達が惹かれそうな本ではありますね。